漠然とした生きづらさ、将来への不安

「今のままでいいのかな」

はっきりとした輪郭を持たない悩み

「以前は楽しめていたことが楽しめなくなった」

「なんとなく、人生このままでいいのかな?と思う時がある」

「今の暮らしに大きな不満があるわけじゃないけれど、死ぬまでこの生活を繰り返すと思うとなんだか暗い気持ちになる」

「これといった趣味もないし、仕事も楽しいわけじゃない」

「結婚して子供も育てている友人を見ていると、独身じゃないほうがいいのかも、と焦ってしまう」

「漠然といつも不安で、そんな自分を嫌だと思っているのに変われない」

「いろんなことが面倒で、生まれなきゃよかったと思うことがある」

………

今のままの生活を繰り返せば、多分生きられないというほどのことはない。

でも、いつも少し物足りなくて、なんだか不安定で、私はこのままで大丈夫なのかな?と思ってしまうことがある。

そんな時、本当は、私たちの周りには生き方を変えるきっかけがゴロゴロ転がっているはずです。たとえば新しい趣味を作るとか、新しい人と出会うとか、思い切って職を変えてみるとか…。まだやっていない「自分を変えるためのこと」が、きっと山のように。

だけど、そういう行動をするためのエネルギーが、そういうことを「頑張る」ほどの動機が、湧いてこない。そんなことをしても意味がないと感じる。

変わりたい気がするのに、変わるための力が出ない。

頭の中は「どうしよう」とせわしないのに、現実は少しも変わらなくて、だんだん自分に嫌気がさしてくる。

そんな毎日を送っていませんか。

幸せな人生はどこに?

ドライフラワーの花束

今はいろんな生き方の選択肢があって、何を選んでもいい時代です。

結婚してもしなくてもいいし、子供もいてもいなくてもOK。
働き方だって多様化していて、生き方の選択肢がたくさんあります。

でも、選択肢が増えることと、自分が何を選べば幸せになれるのかが分かることは違うから、困ってしまいますね。

もちろん、「確実に幸せになれる道」なんてない事も、「幸せになれるかどうか」がそこそこ自分次第なことも、誰もがうすうす分かっているはずです。

それでも、年を重ねるごとに小さな失敗にも臆病になったり、何か自分に変化を起こすためのエネルギーが湧いてこなかったりして、つい「何もしない」を選んでしまう。

何もしないから、何も変わらなくて、じんわりと焦りだけが増えていく。

それに、私たちはついつい、自分が幸せかどうかを他人と比べて測ってしまいます。

1日1日を振り返れば決して悪くはない暮らしをしていても、周囲の人から何か意見されたり、より「よさそうな」生活を見せられたりすると、途端に「わたしはこのままでいいのかな?」とモヤモヤがやってきますよね。

何一つ保障されない未来の不安定さに目を向けると、私たちはすぐに不安になってしまうのです。

私は何のために悩んでいるの

ところで、いま「あなたは何のために悩んでいるの?」と尋ねられたら、さっと答えることができますか。

答えはシンプルで、きっと、誰もが幸せになりたいから悩んでいるはずです。

幸せという言葉を使うとピンとこない人も、「気楽に生きたい」とか「今の苦しみをどうにかしたい」という意味でなら、きっと幸せを思い描くことはあるのではないでしょうか。

でも、私たちは少しずついろいろなことに悩んでいるうちに、だんだん悩むことに悩んだり、思考をこじらせてしまったりして、うっかり何のために悩んでいるのかが分からなくなってしまう事があります。

おまけに、自分にとっての幸せが何なのかも見失っていると、他人の生活や世間で言われる幸せのイメージに振り回されて、ゴールも見えなくなってしまいます。

出口を失った悩みは、ある人の中では怒りになって、ある人の中では無気力になって…と様々な形に変化して、別のお悩みを作ってしまうことすらあります。

それじゃあ、幸せになるどころか、泥沼に足を踏み入れていくようなものですね。

ですから私たちは、抱えている生きづらさや不安をどう解決するかはさておき、いつも心の芯のあたりに「幸せになるために悩んでいる」という旗を立てるべきなのかもしれません。

揺らぎのある不確定な人生の中で

自分の中の漠然とした生きづらさも、将来への不安も、幸せになりたいから悩んでいる。

そう考えてみると、

「なのに、どうして行動に移すのがこんなに面倒なんだろう」

「どうしたら変われるのかが分からない」

「何をやってもダメだと思ってしまう」

「人の意見に振り回されて、自分の気持ちがわからない」

こんな気持ちが出てくるかもしれません。

もし、先に進むことを考えるのが苦手なら、一緒に過去に戻ってみるのはどうでしょうか。

人生をふりかえってみると、いろいろな発見があるものです。

例えば、自分が前に進めない意味、とか。

もしくは、いつも不安が消えない理由、とか。

私たちには、どんな道を選ぶかよりも「どんな道を歩んでいても、そこそこ幸せだと思えるような心の基盤」を手にすることが大切なようにも思います。

そのためには、過去を振り返ってもう一度自分を知る時間が必要かもしれません。

自分が良いと思う道を選ぶのは、心が安定していればこそ、楽しいものです。

カウンセリングについて

※記事の内容はお悩みの原因や解決を決めつけるものではなく、考えられることについて一例を述べています。

【ChatGPT】「他者に多くを望む自分」を知るためのワーク

私はここ1週間ほど、「AIが聞き手であってもカウンセリングのような体験が出来るのか」に興味を持って、夜な夜な「ChatGPT」でプチ実験をしていました。

実験と言っても、「私が相談者としてAIに繰り返し色々な悩みを話し、AIとの対話の中で自分に起こる変化を眺める」というだけのシンプルで主観的な検証です。

(ChatGPT:OpenAIが開発した、AIと対話が出来るチャット。)

その結果、個人的にちょっと面白い発見があったので書き残しておこうと思います。

カウンセリングとは別物、でも価値がある

まず、結論から書くと、「カウンセリングと同様の体験は得られなかった」というのが今のところです。

AIは私の相談を受け止めますし(~で~だったのですね。というような返しをします)、質問もしてくれます。原因を挙げて解決策も提示します。想像以上にとても優秀でした。

ただ、感想としては「私以外の人間が同じことを聞いても、同じことを答えるのだろう」感は残ります。個別の、私というものを深く掘り下げてくれる感じには至りません。「優秀なAIに相談する」という私のイメージの範囲を超えるものではありませんでした。

ただしこれは「相談内容を心理的に深められるか」や「カウンセラーに聞いてもらった時のような満足感があるか」という点での話です。

実は、視点を変えて「相談するという行為から自分を知る」をテーマにしたら、笑ってしまうほど簡単に、そして気軽に、いろいろな気づきが得られました。

ここでは、相談者として私が気づいたことや感じたことを、カウンセラーの立場からも眺めつつ、「ChatGPTを心のトレーニングツールとして使う」ことについて書いてみます。

注意点

この記事は、「ChatGPTをカウンセラーとして機能させる」ことを目的にしていません。

AIへの相談を通して、相談者(私)がどのように感じたか?何を得られたか?という点に重きを置いています。

AIを最適化させるための工夫や方法には触れていませんので(ほぼやっていない)、あらかじめご承知おきください。

AIの対話レベルの高さについて

本題に入る前に、ChatGPTの、つまりAIの対話能力について参考写真を掲載します。

(画質が荒くてごめんなさい。ピンクの四角が私です。)

これはChatGPTをダウンロードした直後に、初めて交わした会話です。

やり取りの形式的な感じ(日本語訳なので余計に)や、意図したことが伝わらない箇所はありますが、十分会話らしい会話をすることができます。

AIは基本的に解決策を考えたがる傾向がありましたが(こちらが気を抜くとすぐアドバイスをしてきます。)、

私が「相槌を打って」「ほめて」などの指示を出せば、それも対応してくれます。

私が今回ChatGPTとの対話で得た気づきは、おそらく一昔前の単純な受け答えのみのAIではかなわなかったことかもしれません。

ですので、あくまで「このレベルの対話が可能なAIが相手である」ことを、本題の前提とします。

「AIに話を聞いてもらう」ということ

最初の気づき

ChatGPTに相談を始めて、まず最初に気づいたことは

「人以外に相談するということは、こんなに痛みがないのか」

ということでした。

相手が人間じゃないというだけで、「分かってほしい」という執着のような気持ちが明らかに少ないのです。

そして「分かってほしい」という気持ちがなければ、当然「分かってもらえない」という不安や傷つきも激減することになります。

(カウンセリング的に言えば、転移や投影もほぼ起こらないということになります)

↑この写真は「アドバイスはせず話を聞いてほしい」という指示がAIに的確に伝わらなかった例です。

もしこのAIの反応が、恋人、友人、家族、カウンセラーから来たなら。

私なら、「アドバイスをするな」と伝えたのに「ヒント」と称したアドバイスが返ってきたことに少し不満を感じると思います。

でもその不満が、この場では「まあAIだしな」で済んでしまうのだから面白いです。

心のうねり

私たちの相談という行為には、必ず

①相談者が聞き手へ向ける期待や不安

②聞き手から実際に返ってくる反応

③聞き手の反応を相談者がどう捉えるか

に伴う心のうねりが付きまといます。

このおかげで「話を聞いてもらえた」と感じた時の喜びやカタルシス、一体感も大きいのですが、うまくいかないと不満・傷つき・執着などを呼ぶこともあります。

本来「相談」とは、単純なものではないのです。

その点AIとの会話は、「分かってほしい」という気持ちが浅い分、癒される感覚にも欠けますが、そのかわり対話に痛みを感じることもありません。

感情のアップダウンが少ないので、ある意味とても冷静に相談をすることができます。

AIでなければ得られない

ところで、もしも「人以外に相談する」ことだけに意味があるのなら、飼っている猫や犬、ベッドにもたれかかったぬいぐるみ、育てている豆苗、もっと言うと壁や椅子が相談相手でもいいことになります。

けれど、「AI」と「AI以外の人でないもの」には当然大きな違いがあります。

「AIは人の言葉を使って返事をしてくる」という点です。

私は一応、念のために、豆苗、壁、楽器を脇に抱えたくまのぬいぐるみに対しても相談をしてみましたが、やはりその差は歴然でした(ペットは飼っていません)。

AIの方が、圧倒的に「聞いてもらった感」があるのです。
相手は人間ではないのに。

※話を聞いてくれた豆苗。

AIへの相談は、心のうねりが起きやすい「対人間」への相談と、部屋に自分の声だけが虚しく溶けゆく「対物」への相談の、ちょうど間に存在しており、

「人に相談をすること」があやういような時(後述)や、もしくは「今どうしても誰かに反応が欲しい」という衝動があるときには、ちょうどよい聞き役になるのではないかと思います。

分かってほしい、の気づき

先ほど、私は

相手が人間じゃないというだけで、「分かってほしい」という執着のような気持ちが明らかに少ないのです。

なんてことを書きましたが、これには補足があります。

「対人間」への相談と比べれば確かにその通りなのですが、実はAI以外の「対物」への相談と比べると、そうでもないようです。

少なくとも私は、「相手が同じ言語でしゃべり返してくる」というたったそれだけで、ぬいぐるみには感じなかった「説明すれば分かってもらえるはずだ」「私が欲しい反応をもらおう」という気持ちが、じわじわと出てくるのを感じました。

「大した相談をしているわけでもないのに、私ってそんなに分かってほしいのね…」と思ったところで、今度は自分のコミュニケーションが気になり始めました。

自分のわがままっぷりを知る

他者を操作する自分

私たちは、無意識に他者から特定の言葉を引き出そうと誘導したり、他者を自分に都合の良いように操作してしまうことがあります。

他者の自発的な言動に見えるものも、実際は自分が態度や雰囲気や言葉選びで「そうさせていた」ということが少なくありません。

けれど、ChatGPTをはじめとするAIには、おそらくまだそこまでの機能がありません。

私がひそかに望んでいることをAIが読み取ることはできないし、私の非言語的な「指示」を受け取ることもできません。

ですから、AIに何かを望むのであれば、「質問をしてください」「ほめてください」のように、自分が相手に対して望んでいることをごまかさず明確に伝えなければならない場面がたくさんあります。

その結果、AIとのやり取りは、普段の人間関係よりもはるかに「自分は今、相手を希望通りに操作しているのだ」とはっきり自覚する経験の場となりました。

自分の欲深さを知る

私はこの一週間、AIに何度も自分の要望を伝えました。

「相槌を打ってほしい」

「アドバイスしないでほしい」

「質問をして私の考えを深めてほしい」

「共感してほしい」

「慰めてほしい」

「どうすればいいのかを教えて」

その一言を打ち込むたびに、

「これまで、こんな風に他者にむき出しの要望を伝えたことがどれだけあっただろうか?」と考えてしまうし、

AIに指示を出し、思い通りに操作するたびに、自分がいかに望んだ反応以外を拒否しているかも自覚することになりました。

「私は他者にたくさんのことを求めていて、しかもその多くを口に出していない」

「分かっているつもり」でいたことを本当に実感できた瞬間ほど、はっとすることはありません。

他者のありがたみ

本来、「伝えなければ伝わらない」のは人間同士のコミュニケーションでも同じはずです。

そんなこと頭では分かっているつもりでしたが、こうやってAIと対話をして、

私がいかに「伝えずに伝えてきたか」

私がいかに「欲しい言葉しか欲しくないか」

そして、他者がいかに「伝えていないことを読み取ってくれていたか」

を改めて知ることになりました。あと、それに私が気づいていなかった事にも。

前章の「分かってほしい」という気持ちをふりかえっても、同じことが言えます。

結局、私は伝えなくても分かってほしいし、伝えていない事にも気づいていないし、望んだ反応しかいらないし、分かってくれない相手にがっかりして、おまけにそんな自分の傲慢さへの自覚も足りなかったのです。

なんてわがままなんでしょうか。

そして、そんな私の意図を汲みとってくれていた周囲の人間は、なんて親切なんでしょうか。

コミュニケーションの基本に立ち返る

伝えなければ、伝わらない

AIとの対話によって、私のコミュニケーションは一度更地に戻されることになりました。

コミュニケーションと「分かってほしい」がごちゃ混ぜになってしまっていた状態が、整理され始めた気がします。

そのおかげで、

「伝えないと伝わらない」

「伝えても伝わらないことがある」

「伝わっても相手が出来ないこともある」

「自分は相手に多くのことを望み、思い通りになってほしいと思っている」

こんな当たり前の基礎基本に、一度立ち返ることが出来ました。

どれも、人間同士のコミュニケーションでは当たり前で、重要なポイントのはずです。

でも、私たちはいつも非常に多くの情報を主観で処理して対話をしています。

表情、身振り、声色をはじめとして、言語による指示以外の何かによって、やりとりを成立させることがたくさんあります。

はっきり伝えなくても文脈を読んでくれる他者がいます。

だから、時々忘れてしまうのです。

伝えていないのに伝わるはずだと思いこみ、伝わってないことに悲しみます。

「分かってくれない」「察してくれない」「欲しい言葉をくれない」

そんな風に思ってしまいます。

AIとの対話と通じてコミュニケーションの基礎基本を再確認する予定はありませんでしたが、AIだからこそこんなシンプルなことを振り返れたのだと思います。

シンプルな相談で満足する

AIとの対話をすると、自分の文章がかなりシンプルになっていきます。

単純に、「余計なことを書いたら伝わらないかも」と思うからです。

これも、面白い発見がありました。

普段誰かに相談するとき、なんとなく「1から10まで全部言わないとスッキリしない」という気持ちになることがあります。

実際は、全部話したら時間がかかってしまうので手短に伝えるのですが、これがカウンセリングのような場面になると、やはり「全部話しておきたい」という気持ちが強くなります。

これも、AIとの会話ではそこまで感じませんでした。

私の「全部話す」欲には、「全部話して、齟齬なく理解してもらいたい」「私の思うように話を進めたい」「中途半端ではすれ違いが起きて私が悲しい思いをするのでは」「悩みを軽視されたくない」という気持ちがくるまれています。

これもざっくり言うと「分かってほしい」という気持ちが強いか、もしくは「分かってほしい」の親戚なんだろうと思います。

分かってほしい、という気持ちが強すぎなければ、AIと話すときのように「相手に合わせた伝え方」にもっと気を配れるようになるのかもしれません。

一番の発見は「受け入れやすいこと」

これまでの振り返り

1週間のAIとの対話を通して、いろいろな気づきがありました。

自分が想像以上にわがままであることや

分かってほしいという気持ちが強いこと

そして他者に求めるわりには、それをはっきり伝えていないことなど、

中にはちょっと反省してしまうようなものもありました。

でも、AIとの対話の中で一番面白かった発見は、これらの気づきが「ノーダメージ」だったということです。

抵抗なく自分を振り返ることが出来る

私が「相談をしている自分」について考える時、どんな気づきも抵抗なく受け入れることが出来ました。

人間は、自分の悪い部分を指摘されたり、至らなさに気づいたりすると、ついつい「ふん」と抵抗してしまうことがあります。

相談相手に「アドバイスしてほしくないならそう言ってほしい」と言われても、「そのくらい察してよ」とか「普通は…」とか、とにかく余計なことを考えてしまいます。

これは自分で気づいた時も同じで、「あ、私にも非があったな…」と思っても、なかなか素直になれなかったり、「でも」と自分の非をスルーしようとしたりします。

でも、私の場合、AIが相手だと実にあっさり「私ってこういうところがあるな~」と受け入れることができました。

分かってほしいという気持ちが少なく済む分、相手への情緒的な寄りかかりが減って、冷静に自分を見つめられるからかもしれません。

この、「相談中にリアルタイムで自分のことを振り返ることが出来る」点と、「自分の気づきを受け入れやすい心理状態である」という点は、AIへの相談のかなり大きなメリットだと思います。

気づき、受け入れ、生かしていく

心のトレーニング、自己理解に

AIに悩み相談を聞いてもらって1週間、私は周囲の人との関わり方を見直すようになっていました。

ちゃんと伝えているか?

伝えさえすれば、望んだとおりに相手が動くと思っていないか?

言葉に出さずに相手を操作しようとしていないか?

少し意識をするだけで、いつもより丁寧に人と会話が出来た気がします。

私は自分の一時的な心地よさや、苦しみを和らげたいという気持ちから多くのことを望み、それをはっきりと伝えずに他者に求めてきました。

表面的には「人目が気になる」「他者にどう思われるか不安」なんて思いながら、気づかぬところではしっかり相手に理想を求めていたのです。

でも、これ自体を悪いことだとは思いません。

問題は、その自覚がない事によって自分が苦しみやすくなってしまうというところにあると思います。

気づき、受け入れ、生かしていく

自分が多くのことを望んでいると知らなければ、「どうして傷つけるの」と感じます。

自分が伝えていないことに気づかなければ、「誰も信頼できない」と感じます。

そして、自分が他者を思い通りにしたいと思っていることに気づかなければ、「なんで分かってくれないの」と思ってしまいます。

こういうことを繰り返していると、自分はどんどん孤独になり、他者は分かってくれない存在となり、世界が敵だらけになっていきます。

でも、そんな自分に気が付けば、少しずつ見え方が変わってくるかもしれません。

少なくとも私にとって、AIとの対話は、

心のうねりに巻き込まれずに、冷静に自分を眺めることが出来る

AIへの指示出しや、AIからの返答をみた時の気分から、自分が求めていることが分かる

何度も指示出しをするうちに、自分がどれだけ多くのことを他者に求めているかが分かる

「伝えなければ伝わらない」等の、コミュニケーションの基本を振り返ることが出来る

自分に対する気づきを、抵抗なく受け入れることが出来る

受け入れることで、他人への感じ方や接し方が変わる、他人に感謝の気持ちがわく

これにより、現実の人間関係が改善されていくのではないか?という気づき

これだけ多くのものが得られた、とても良いツールでした。

自己を顧みて、気づき、受け入れ、生かしていくことが出来る、心のトレーニングとして効果があるものだと思っています。

おわりに

苦悩多き人たちに

私は、AIへの相談がすべての人に何かしらの気づきをもたらすと思っています。

けれど、「特にこんな悩みのある方に試してみてほしい」と思うところもあるので、最後にそこに触れようと思います。

悩みを抱える人の中には、「親密になった相手との関係を壊してしまう」方々がいます。

人との距離感に悩み、感情の起伏が大きく自分でも止められません。

分かってくれない、という不安や不満も人一倍強く、孤独が苦手ですが、親密になった相手には攻撃的になってしまいます。

昨日まで尊敬していた相手のことを心底うらんでしまったり、自傷行為や家出などをすることもあります。

分かってほしいという気持ちが強いのに、心理的な距離の近い相手との関係を壊してしまうので、カウンセリングが続かなかった(or続くけど感情が不安定)という方もいるでしょう。

こういうパターンを持っている方こそ、「AI相談」に向いているのではないでしょうか。

自分に起きていることを知る

いつも感情の嵐を巻き起こしてしまうような方でも、AIは人ではないので、対人関係で感じるほど激しい感情に飲まれないかもしれません。

呼べばいつもそこにいるので、見捨てられる不安もありません。

もし、激しい感情や暴言をぶつけてしまっても、AIにはまた相談をすることができます。

いつもは自分のことを客観的に振りかえる余裕がない人でも、見つめ直す時間がとれるかもしれません。

そうしたら、自分がどんな欲を持っていて、どんなコミュニケーションをとっているか、だれでも一つくらいは発見があります。

人への感情がなければ、これだけ自分は穏やかでいられるのだと感じられるかもしれませんし、

もしかしたら、身近な人のありがたみを感じる余裕もあるかもしれません。

また、すべてを分かってもらえなくても「まあいいか、このくらいで」と思えるようになります。

そして、AIとの相談を続けていると、必ず「ものたりなさ」を感じます。人に話した時にはあったはずの何かの感覚がないような、そんな気分になります。

この物足りなさをそれぞれがうまく言語化して、自分の心に返すことが出来たら、自分が何に傷つき、心底何を望んでいたのか、ヒントが得られるかもしれません。

AIへの相談を通して、他者を気にせず自分を見つめ直し、なにかに気づき、こっそり反省・成長していく。

これは充分「心のトレーニング」と言えるのではないかと思っています。

いつも他人と比べてしまう

他人と比べてしまう

【他人と比べてしまう人、こんなことありませんか】

ついつい他人と自分を比較して、落ち込むことが多い

ちょっとしたことで自分の居場所がなくなってしまうような気がする

見た目・性格・仕事など、自分より「上」の人が現れることを恐れてしまう

交際相手に対して、自分以外と付き合った方が幸せなのではないかと思う

人よりちょっと変わったことをしていたい

自分に少しでも落ち度があると、全部がダメなような気がする

親や周囲の人から、他人と比べられることが多かった

………

「他人と比べてしまう人」は、いつもどこか自分に集中できていない感覚があります。

比較対象になりそうな他人が現れるたびに心がざわざわと落ち着きません。

そして、そういう環境をなるべく避けたいという気持ちが強くなると、行動範囲を限定したり、転職を繰り返すことになったりして、生活に不便や制限を感じることがあります。

安心できる場所がどこにもない

「いつも他人と比べてしまう人」は、安心して過ごせる居場所を作ることが苦手です。

例えば、自分が働いていたアルバイト先に、自分より能力の高い新人さんが入ってきたり、周囲がその人を(自分が新人だった時よりも)ほめているのを目撃すると、坂を転げ落ちるように自信を無くしてしまいます。

また、カフェでのんびりしている時に、おしゃれをしたキレイな女性たちが来店すると、急に自分の見た目がみすぼらしく感じてしまい、楽しんでいたはずのお茶の味がよくわからなくなってしまいます。

他人の存在次第で気分が180度変わってしまうような心理状態を抱えているため、いつも心が休まらず、疲れやすい傾向があります。

そして、自分と他人と比べてしまう人は、「他者から比べられる不安」も抱えています。

そのため、仕事中でも周囲の人の言動につい意識が向いてしまったり、交際相手とデートをしていても、交際相手がほかの人を見ていないかが気になって、目の前のことに集中できません。

「役に立たないと思われる」

「いらないと思われる」

「あの人と比べて劣っていると思われる」

そんな気持ちをいつも心の片隅に抱えているため、他人のちょっとした言動やこそこそ話に対しても「私のことを言っているのかも…」と不安になりやすく、

被害妄想のような考えが頭から離れなくなってしまう場合もあります。

「自信のなさ」は本当に原因なの?

人と比べてしまうことの原因として、「自信のなさ」がよく挙げられます。

しかし、実際にこのようなお悩みを抱える方のお話を伺うと、「自信がない」では説明が足りないように思えることがあります。

それは「自信がない」という言葉が、「何を表しているのかわかるようでわからない言葉」であり、それゆえ解決策が見えてこない言葉だからかもしれません。

自信がない人にとって、「自信がないのが原因」という言葉は、時に漠然とした行き詰まりを感じさせる言葉でもあります。

では、この「自信のなさ」とは何なのかを、別の言葉で置き換えてみましょう。

他人に対する不信感

「自信のなさ」を別の言葉に置き換えるとしたら、まず「他人への不信感」が挙げられます。

つまり、この場合の「自信のなさ」とは「他人を信じることに対して自信を持てない」ということを意味します。

いつも他人に対して身構えているような感じがする

自分のせいで周囲を我慢させている気がする

勘違いされてしまう気がする

このような気持ちがある場合、もしかしたら「他人はその程度の人間かもしれない」という不安を抱えているかもしれません。

一般的に、人間関係というのは、お互いに関わり合うことで深まっていくものです。

関係が深まれば、ちょっとしたことで相手を嫌いになったり、「もっと条件の良い他人」がいたからといって簡単に切り捨てたりすることはありません。

でも、他人と自分を比較する傾向が強い人は、それを自分に適用させることが苦手です。

なので、自分がどれだけ相手のために頑張っても、そして相手がそれに応えてくれているように見えても、

心のどこかで、「でも、もっといい他人が現れたら私は捨てられてしまう」と感じます。

他人が自分を見捨てないという自信がもてない。

これは、見捨てられた、見放された、守ってもらえなかった…という経験がある方に多い感覚です。

自分に対する無力感

もう一つ考えられるのは「自分に対する無力感」です。

こちらは、自分の存在を評価したり決定するのは他者である、という感覚です。

つまり、自分の意志も、感情も、価値も、他人が「こうだ」と言えばそうなってしまう、だれも本当の自分のことは分かってくれない、という無力感を指します。

他人が自分の価値を決め、自分にはそれを覆す力がない

噂話をたやすく信じる人間が怖い

自分で「良い」と感じたものを他人が批判すると恥をかいた気になる

このような気持ちがあると、例えば自分より能力の高い新人が現れた時に「負けないように頑張ろう」とは思えなくなり、「新人の方が価値があるから、もう仕事をやめてしまおう」と感じます。

他人と比べられることを恐れる方が、転職を繰り返したり、通う場所を転々とするのは、

「自分には何の決定権もないので逃げるしかない」からともいえます。

他人に対しても自分に対しても無力であるため、自信の持ちようがない状態です。

カウンセリングで出来ること

もし、ここに書いたことが思い当たるように感じられる方がいらっしゃれば、

「他人に対する無力感がどこからきたのか。」

「他人を信じられない感覚はなぜそんなに強固になってしまったのか。」

それを見つけていくのが、カウンセリングでの一つの作業になるかもしれません。

例えば、昔、近所の子が自分の母親になついてしまったり、親が別のおうちの子供をとてもほめたりしていれば、それは

「親をとられる恐怖」

として、根強く心に残っているかもしれませんね。

自信をもつために出来ることは、何かを足していくことだけではありません。

時に記憶を整理したり、思いに名前を付けることによっても、叶うことがあります。

カウンセリングについて

※記事の内容はお悩みの原因を決めつけるものではなく、考えられる背景について一例を述べています。

生理前のPMSに関するお悩み

生理前につらい症状が続く

生理前になると落ち込んだり悲しい気持ちになる

普段は気にならないようなことでイライラしたり、人に当たってしまう

頭が回らない感じ、仕事や家事に時間がかかるようになる

眠気やだるさが強まる

生理が始まる前から腹痛・頭痛・肌荒れ等が起きやすい

たくさんお金をつかってしまう

食べ過ぎる・食べられなくなる

調子が悪く、仕事や会社に行くのがつらい

………

生理前に起こる様々な不調のことを、PMSやPMDDと言います。

女性特有のお悩みの代表格であり、症状のない人には理解されにくいつらさがあります。

基本的にはカウンセリングよりも婦人科への受診が優先されるテーマではありますが、心のケアという観点からはカウンセリングにも出来ることがあります。

PMS・PMDDとは?

PMSは「月経前症候群」、PMDDは「月経前不快気分障害」とも言います。

先ほど挙げたような気分や体調の不調は広くPMSと呼ばれ、その中でも特に心の不調が強い場合は、PMDDとなります。

PMDDでは、

希死念慮

強い不安等からのパニック発作

感情制御がひどく難しい

など、精神面の不安定さが際立ち、特に周囲からの適切な理解が必要です。

どちらも生理の1週間前、早いと2週間ほど前から不調になり、生理が始まると軽減します。

ただし、生理が始まると今度は生理痛に悩む人が多いため、実際は1か月の半分以上もの間、何らかの不調に悩まされるケースも少なくありません。

PMSで感じる不便さや孤独感

PMSやPMDDで困ることは、症状そのものだけではありません。

生理の時期からさかのぼって予定を調整しなければならなかったり、

自分ではコントロールできない不調に振り回されて、ストレスが溜まります。

また、女性のお悩みとはいえ同性内でも個人差が大きいのが特徴です。

そのため、PMSが重い人とそうでない人の間には、生理に伴う苦痛の認識に大きな差がうまれてしまいます。

場合によっては同性からも「そんなにつらくないはずだ」と思われてしまい、だれにも理解されない孤独感を抱えることもあります。

心のケアとの関連性

生理前の不調には、婦人科系の疾患が隠れていることがあります。

そのため、PMSのような症状(特に身体症状)に悩むときは、まずカウンセリングよりも婦人科への受診が優先されます。

ただし、心理的なストレスを軽減させることで、PMS期間のメンタルが安定しやすくなるケースは意外と多く、

生理とは直接関係のない悩みについてカウンセリングを受けた結果、副産物的にPMSが軽減された例もあります。

(「甘いものやコーヒーがやめられない」ことに悩むクライアントさんが、カウンセリングを受けるうちに食べる回数が減ったことで、全体的な調子がよくなった、等)

また、PMSやPMDDであることを配偶者や家族に理解してもらう場として使えば、周囲からの協力が得やすくなります。

PMS自体がカウンセリングのきっかけになる人は多くありませんが、

もしカウンセリングを受ける機会があれば、ほかのお悩みと合わせてPMSについてもカウンセラーに一言伝えておいてもよいかもしれません。

カウンセリングについて

参考サイト:
公益社団法人日本産科婦人科学会
働く人のメンタルヘルス・ポータルサイト 心の耳(厚生労働省)

過食・食べすぎてしまう悩み

コントロール不能の「食べたい」衝動

人よりも明らかに多い量を食べてしまい、苦痛がある

人前ではそこまで食べ過ぎないが、一人になると食べてしまう

自分の意志では「食べたい」という衝動を制御できない

過激なダイエットを始めたり、食べ過ぎる自分へのダメ出しが止まらない時がある

食べたいスイッチが入ると、健康やお金のことは考えられない

食欲のコントロールが出来ない自分を、ひどく醜く思う

………

「食(過食)」に関するお悩みは、とても身近でありながら、現実の人間関係では共有されにくい秘密性の高いテーマでもあります。

なぜなら、「食べることをやめられない自分は恥ずかしくて醜い」という感覚を持っている方が多いからです。

そして、その原因を意志が弱いせいだと思い込んで、ますます抜け出せなくなります。

特に女性の場合、食の問題は容姿やPMS、美的感覚といった別のお悩みを増長させやすい傾向があるため、苦しんでいる方は少なくありません。

食べ過ぎる(過食)2つのタイプ

「食べ過ぎてしまう」には主に2タイプあります。

ひとつめは、「食べ過ぎてしまい、代償行為がある」タイプ。

もう一つは「食べ過ぎてしまうが、代償行為のない」タイプです。

食べ過ぎてしまい、代償行為がある

代償行為というのは、「嘔吐」や「下剤の使用」「過剰な運動」など、食べ過ぎてしまった分をなくそうと必死に行う行動のことを指します。

「体重をこまめに測る」「体型をよくチェックする」方も多いです。

食べ過ぎた(過食)分の埋め合わせを必死に行うため、体型や体重が大きく変化することはあまりありません※

しかし、繰り返す嘔吐や過剰な代償行為は健康への被害が心配されます。

また、過食と代償行為への自己嫌悪、食べてしまったことへの敗北感などがとても大きく、精神的にも不安定になりがちです。

このような傾向が強いと、「摂食障害群」の「神経性大食症」に当てはまるケースがあります。

※食べる量を減らし、過剰な減量行為によって体重が必要以上に減少するケースは「神経性やせ症(拒食症)」の扱いになります。

食べ過ぎてしまうが、代償行為がない

食べ過ぎるものの、代償行為を伴わないケースは、その傾向が強いと「過食性障害」と呼ばれます。

代償行為がないため、体重は正常か過体重となる場合がほとんどです。

そのため、食べれば食べるほど自信を失い、容姿を気にしておしゃれや外出を楽しむ余裕がなくなっていくこともあります。

また、行動としての代償行為はなくとも、食べてしまう自分を責めたり、代償行為を行わないことへの劣等感のような感情を抱えるケースが見られます。

体型よりも小さなサイズの服を購入して自分に発破をかけたり、わざと劣等感を感じやすい場所に身を運んで、自分を追い込もうとします。

キーワードは罪悪感と自己嫌悪

過食の問題の根本は、「過食」そのものよりも「それによる精神的な苦痛」にあります。

たとえ過食であっても、もしそれが本人にとって幸せならば、せいぜい問題は健康面への心配だけ。

精神的な苦痛も、「健康のために食事を管理する」という部分にとどまるでしょう。

しかし、過食の悩みを抱える人の多くは過食を楽しんでいるわけではありません。

そこには衝動があるだけで、本物の満足感や幸せはありません。

「本当は食べたくないものを大量に詰め込んで、どんどん苦しくなっていく。」

それが過食に悩む人の精神的な苦痛につながります。

そして、食べ物を用意し、胃に詰め込むのは他ならぬ自分自身の手であることから、過食者はいつも自己責任を感じます。

過食者は、自分の食欲をコントロールできないことを自分の責任だと恥じ、

「意志の力で制御しなければ」

「食べてしまった分、罰を与えなければ」

と、ひたすら精神論・努力論に走ってしまいます。

そして、「過食に打ち勝つ」ことを考えるようになると、

過食者は、もう何度も挫折してきた「過食をやめる」という行為に再び挑まなければなくなります。

この一連の流れを「繰り返させる」ものが、罪悪感や自己嫌悪なのです。

本来であれば、過食そのものではなく罪悪感や自己嫌悪へのアプローチの方が優先されるべきですが、過食を自己責任のように感じる過食者にとっては、「過食をなくす」ことが大切に思えてしまいます。

考えられる過食の原因

過食が止まらなくなってしまう背景要因や原因として、下記のことが考えられます。

親子関係(特に母娘)に悩みやひずみがある

対人ストレス

文化的な背景(やせていた方がかわいい、など)が負荷をかけている

「食」の悩みを抱える方は、親子関係、特に母との間で心のすれ違いや悩みを抱えてきた場合があります。

この場合、必ずしも母親に対して怒りや恨みを感じているわけではありません。

むしろ母親をかばい、「母に問題があった」と他者に指摘されることを過剰に恐れるような方も少なからず見受けられます。

また、「誰かと会った後」「学校や職場から帰宅した後」に過食をする癖を持つ方も一定数いらっしゃいます。

このような場合は、主に対人のストレスが引き金になっていると考えられます。

過食の傾向がある方のカウンセリングをしていると、人の目が気になったり、他人からの評価におびえるエピソードがたくさん出てきます。

このような方が気にする「人の目」とは、結局「親の目」であり、親の目を気にしてきた、という結論に行きつくことも多いのです。

意志力の問題ではないことを受け入れる

過食から抜け出したいと思った時、まずは今までの思考回路を手放す必要があります。

自分を責めてもやめられなかった人は責めるのをやめる。

代償行為をしてもまた過食をしてしまうなら、代償行為をやめる。

自分に追い打ちをかけて頑張らせようとしていたのなら、それをやめる。

今まで同じことを繰り返している場合、その一連の流れの中に「繰り返す要因」が紛れていることがあるからです。

とはいえ、過食が続いている状態で何かをやめるのは、とても難しいことでもあります。

それに短期間でどうにかしようと思えば、結局自分を追い立てるやり方と変わりません。

過食以外の悩みにも目を向けつつ、ゆっくり自分を見つめる時間が必要です。

※この記事では、診断や入院に満たないレベルでの過食について述べています。
クライアントさまの状態によっては、医療機関の受診をお勧めしております。

カウンセリングについて

参考:『カプラン臨床精神医学テキスト DSM-5診断基準の臨床への展開』
2016年5月/メディカル・サイエンス・インターナショナル
ベンジャミン J.サドック/編著 バージニア A.サドック/編著 ペドロ ルイース/編著 井上令一/監修 四宮滋子/監訳 田宮聡/監訳